◆非情な伝説-5-◆

部屋にも戻れずに、私は宿の食堂で、ひとりきり。
ぬるくなってしまったお茶を手にしたまま、ぼんやりとその揺れる水鏡を眺める。

そこに映る自分の顔が、だんだんと母に似てくるような気がして、一気に飲み干した。
母の顔など、もう、覚えてもいないのに……。
「……はあ……」
力なく、テーブルに身体を預ける。真新しいテーブルからは、うっすらと木の香りがした。



──懐かしい感触がする。
暖炉の前でうとうととする私の髪をやわらかく撫でる母の手。
「お母さ……」

ふと、自分の発した声で、目が覚めた。
「……っ!?」
私の髪を撫でていたのは……ミネアさんだった。

「あっ……い、いえ、その、寝ぼけてしまって……!」
聞かれてしまっただろう。私のみっともない寝言を……。
いや、寝言と受け取ってもらえればまだ、いいのかもしれない……。
「うふふっ」
小さな笑い声。恥ずかしくなって思わず頭を再びテーブルにつけた。
「治ったばかりなのに、こんなところで寝ていてはダメですよ」
「……はい……」
再び、優しく髪を撫でられる。
ああ。何だかすっかり子ども扱いされているように感じる。
逆らうこともできない。やめてください、子ども扱いしないでください、とも言えない。
それは……何となく、少しだけ、それを心地良いと感じている自分がいるから……。



「クリフトさんのお母様は、どんな方なのですか?」
心地良い波に身を委ねていた私の身体が現実に引き戻され、ぴくっと強張った。
「……あっ……ごめんなさい……」
そんな私の反応に、聞いてはいけないことを聞いてしまった、とミネアさんは思ったのだろう。
……何と、優しい方なのだろうか。
「……いえ……すみません」
再び私の髪を撫でる優しい手に、私はその身を委ねた。



こんな姿、誰かに見せたことがあっただろうか。
『誰かに甘えていいんですよ……』
それは、ミネアさんの言葉。そうか……私は、ミネアさんに甘えているのか。
ずっとずっと、しっかりしなくては、と思い続けてきた私の心が解されていく。
罵倒され、蔑まされた私の心が救われていく。
弱い心を見せるなんてとんでもないと思っていた。みっともないと思っていた。
本当は、そうじゃないんだ。
……弱い心を見せられる、心を開ける相手がいなかっただけなんだ……。

「……ミネアさん」
「はい?」
「もう少し……このままでも、よろしいですか……?」
「……もちろん」

冷え切った私の心と身体を抱きしめた、王妃様の温もりを思い出す。
あの後、王様と王妃様をはじめ、サントハイムの皆様は私にとても良くしてくださった。
──ここで旅を終えたら、その恩を仇で返すことになるのではないだろうか。
今、王様は、サントハイムの皆様は、私などよりもっともっと苦しい思いをされているはずだ。
私に、できることは──。

私は、ゆっくりと起き上がった。

「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」
苦手な笑顔を何とか作って、精一杯の御礼をする。
「はい。私でよろしければ、いつでも、何でも」
ミネアさんの笑顔は、本当に優しく美しい笑顔だ。いつか、私もこんな風に──。



ブライ様を起こさないよう、部屋の扉をゆっくりと開ける。
相変わらず、小さな鼾。
私が意識を失っている間、どれだけ心配をおかけしたのだろう。

姫様は私のために、危険を顧みず、おひとりでパデキアを取りに行ってくださった。
それなら、私も。今度は、本物の姫様のために。
どんな苦しみにも、耐えてみよう。

小さく十字を切って、私も床についた。



翌朝、私は誰よりも早く起き出し、食堂で皆を待つ。
しばらくすると、ソロさんが階段を下りてきた。
「……」
「……」
長い、沈黙。ただ私は、今度はソロさんから目を逸らしたりはしなかった。
──そうだ。私は……この人にだけは。ソロさんにだけは、負けたく、ない。
それは忘れかけていた私の男としての自尊心。神官としてあるまじき感情。

「お待たせ、ソロ」
楽しそうな姫様の声。思わず、その声の方向を見てしまった。
笑顔だった姫様の表情が曇っていく──。
胸が、痛い。
「よし、行くか」
「うん」
まるで私のことなど目に入らないかのように、姫様はソロさんの腕をとり宿の外に出る。
「姫様……」
私の声が、空しく響いた。聞こえていただろう私の声に、姫様は応えない。
「……姫様……!」
呼び止めても、私の言葉は虚しく響くだけ……。

痛い。
胸が、痛い。
この痛みを、癒すために、私は決めた。



──負けるものか。伝説の存在などに。
私は自らの力で、奪われた私の居場所を取り戻してみせる。
間違った相手なのかもしれない。でも、見つけた。私が憎むべき相手を。

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