◆美しき、悪-3-◆

ひとりきりの、夜。

宿のベッドで、ただぼんやりと窓の外を見つめる。
夜になったというのに消えない街の明かり。賑やかな声。
あちらこちらで男たちが腕自慢を始めている。その男たちに色目を使う娼婦も。
……ゆうべは眠っていないのに、少しも眠くならない。いや……眠るのが、怖いのかもしれない。目を閉じて浮かんでくることは、悲しい思い出ばかりだ。

いつから私は、こんなに醜い心の持ち主になってしまったのだろう。



「……!」
私の周りを包んでいた生臭い空気が、心の靄が、いままでに無いほどに、ざわざわと騒ぎ立てる。
その気配に身体が震え、悪寒が走る。
「……これは……一体……」
この不穏な空気の正体が、近くにあるのか。私は剣を取り、震える足に力を籠めて立ち上がり、部屋の扉を開けた。ゆっくりと、一歩ずつ、廊下へと歩み出る。

──廊下に、ひとりの男の後姿──その姿が、ふと振り返った。
「……っ!」
何かの衝撃。私は廊下の壁にその身を叩き付けられた。ゾクゾクとした悪寒は私の身体を震わせ、手から剣がすべり落ちる。

「あ……」

──恐怖。
感じたことのないほどの恐怖が、私の身体を支配していく。

男はゆっくりと、私に一歩一歩近づいてくる。
まるで絹糸のような美しい髪。
紅玉のような瞳。
妖艶なその容姿は、男の私までをも虜にするような──。

男は、私の顎を掴んで上を向かせる。
頬に、冷たい手の感触──。

……怖い。しかし私の身体は、指ひとつ動かすことができない。

「──お前は──」
息が触れ合うほどの距離で、男は何か呟く。
顎を掴んでいた手は首に下がり、その手にぐっと力が篭る。
「あ……っ……」

──苦しい。息が──できない。
死ぬのか、私は、こんなところで……悲しみの底に這い蹲ったまま。
せめてもの抵抗として、私は動かない身体を強張らせる。

でも……。
それでも……いいかもしれない。楽に、なれるのなら──。
私は、身体の力を抜いて、抵抗を止めた。

「……気のせい、か……」
抵抗を止めたことで、男も私の首から手を離した。力の抜けた私の身体は、ずるずるとその場に崩れ落ちていく。
ぼんやりとした意識の中で、私は男の姿を見上げた。
「……私に仇なす者かと思ったが。とんだ勘違いだったようだ」
「……?」
呆然とする私の姿に軽蔑の眼を向けると、男は宿の階段を降りていく。
──ほっとしたような、がっかりしたような──。
死ぬよりつらい地獄の呪いを受けているのであれば……死ぬことも許されないのだろう。

男が去ると、空気の澱みは嘘のように晴れた。



その夜は結局、一睡もできかなった。
あの瞳──紅い瞳を思い出すと、感じた恐怖を思い出し、身体が震えた。
朝、鏡に向かうと……首に、締め付けられた跡。確かに残る、恐怖の証。
跡をそっと撫でると、ふっ、と生臭い空気が渦を巻く。

「はあ……」
深いため息を、ひとつ。
恐怖の証が見えないよう、身だしなみを整えた。



街は相変わらずの喧騒。賑やかな雰囲気はどうしても好きになれない。それでも、他の人々はとても楽しそうだ。それが羨ましいという気持ちがある。
──私は、昨日の男の影を無意識に探していた。おそらくはこの大会の参加者。あれほどの恐怖を感じる者が参加しているのかと思うと、姫様の身が心配だ。
参加者と思しき人物には、女性の姿も散見された。姫様以外にも、これほど多くの女性が強さを求めているとは驚きだ。街のあちらこちらで起こっている喧嘩や腕自慢でも、男を負かす女性は珍しくない。
姫様だけが特別、という訳でも無いのか……。

街をひと回りしてみたものの、昨日の男の姿を見つけることはできなかった。



「クリフト」
私を呼ぶ声に振り向くと、ブライ様だった。
「ブライ様、そろそろ大会の予選が始まるのでは……」
「うむ、予選は大会参加者以外は入れんのでな」
私たちは近くの植え込みに腰を下ろし、ぼんやりとお祭り騒ぎを眺めた。

「昨日は……すまんな。王様も苦渋の選択だった。お主の気持ちを考えると、サントハイムから……」
「ブライ様」
私は思わず、ブライ様の言葉を遮った。
「私もいつまでも子どもではありません。王様の命令には従います。それに、これ以上のお言葉は……」
──私が、惨めになるだけです……。
そう言いかけて、私は止めた。



どんなに美しい言葉を投げかけられたとしても、私が邪魔であることには変わりが無い。
私の存在価値を取り繕おうと紡がれる言葉のなんと空々しいことか。
……そう感じてしまう私の心の、なんと醜いことか──。




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