◆偽りの姫-4-◆

私の耳に、辺りの音が蘇ってくる。
サラサラと水の流れる音。酒場の喧騒。そして、未だぐらぐらと揺れる意識を撫でる冷たい風。
風は私の周囲から、生臭い空気を掃っていく。

──そうだ。黄金の腕輪を──。

私は一歩、足を踏み出した。途端に痛めつけられた腹の痛みが強烈に蘇る。そっと掌をあて、治癒呪文を唱えた。暖かな光が私を包み、その痛みを癒していく。

まずは、宿に戻ろう。
……誰にも、会わないように……。

宿の扉をそっと開けると、足音を立てないように自分の部屋へ戻る。姫様はブライ様と、エンドール城の話をされているようだ。
私は神官服に袖を通し、剣を背負う。荷物からありったけの薬草を手に取ると、袋に入れて腰に下げた。
……もし、この街の中に黄金の腕輪が無ければ、街を出ることになるだろうから。もう一度、人の目を盗んでここに戻って来ることは避けたかった。

──ひとりで、何とかしたかったから──。



私は酒場の扉を開けた。この騒々しい雰囲気と、むせ返るような空気は、どの街の酒場でも一緒だ。どうしても、私はこの雰囲気が好きになれない。そしてまた酒場の雰囲気も、私を歓迎していないように感じる。
神官服を纏った私がこのような場に現れたことが珍しいのか、数人の客が私のことをじろじろと見る。私は目を合わさないよう進むと、マスターに声を掛けた。
「この街に伝わる、黄金の腕輪について教えていただけませんか」
「……」
マスターは答えない。ただ一瞬、その眉がぴくりと動いた。何か、知っているのだろう。
私はマスターの手を取り、改めて訊ねた。
「黄金の腕輪について知っていることを、教えてください」
マスターから手を離す。その手には、僅かではあるものの、ゴールドを握らせた。マスターはその感触を確かめるとポケットにしまい、小さな声で囁いた。
「……街はずれに墓場があるだろ。そこの墓守が何か知ってるらしい」
それだけ言うと、マスターは仕事に戻る。私のことなど全く気にならないかのように、ガラの悪い男からの注文を受けて、次々と酒をグラスに注いでいった。
軽く会釈して、私は急ぎ足で酒場を後にする。賑やかな雰囲気は、今の私の心を切り裂くだけだ。

墓守の家は、すぐに見つかった。他のどの家より年月を重ねたような、ぼろぼろの家だった。その煙突からは絶えず煙が上がり、窓から明かりが漏れる。
そっと、その扉をノックすると、太い声で、開いてるよ、と応えが返ってきた。私は扉をゆっくりと開く。
家の中は多くの石細工が飾られていた。墓石だけではなく、美しい女神像や、今にも動き出しそうな動物たちの姿も。これらは、この墓守が作ったものなのだろうか。
「お前も腕輪が欲しいのか」
私はその太い声に、心を見透かされ、身体が強張る。目の前の男は小柄で、たっぷりと髭を蓄えた、純朴で、頑固そうな雰囲気だ。
「やめておけ。お前みたいな奴には必要の無いもんだ」
墓守は石を彫る手を休めずに、私に言う。これまでも多くの人間が黄金の腕輪を欲していたのだろうか。それほどまでに人間が、そして魔物が欲しがる腕輪とは、一体何なのだろうか。
「……必要なのです。姫様を救うために」
私は迷わず、メイさんを姫様と言った。
「ああ、あの姫様か。ありゃ、偽者だろ」
「えっ……」
どうしてこの男は、メイさんが偽りの姫であることを知っているのだろうか。
「見りゃ判るよ」
何だか私の心を読んでいるかのように、私の疑問に答え続ける墓守の手元を、私はじっと見つめた。
手元の蝋燭がゆらゆらと揺れ、何も無い石に吹き込まれていく命の影を照らし出す。
「……あの方が本物でも偽者でも、それは、関係ありません。あの方を救うために、腕輪がどうしても必要なのです」
墓守の手が、ふと、止まった。

「……その女は、お前にとって、命を捧げられる女か?」

私は答えに詰まった。

姫様であれば、私は迷わず、そうだと答えるだろう。主君を命がけで守ることは、臣下である私の役目だ。しかし、メイさんは……言葉は悪いが、今日初めて出会った、ただの行きずりの女性だ。命を捧げられるか、と言われたら、それは……違うだろう。私がこの身を、この命を捧げられる相手は、姫様ただおひとりだ。

「……違います」
私は迷った挙句、小さな声で呟いた。

「正直な奴だな」
墓守は再び、手を動かす。ただの塊だった石は、美しい女神像に姿を変えていく。
「しかし……しかし、メイさんを危険な目に合わせてしまったのは、私の責任です。女性ひとりお守りすることができないなんて、私は……」
「南の洞窟に行きな」
私の言葉を遮り、墓守は言った。
「ただし、な。黄金の腕輪には、呪いがかけられてんだ。あれに触れたものは、みんな、死ぬよりつらい地獄を味わうことになる。だから、俺のひいじいさんが若いころ、石箱を作って、洞窟の奥深くにしまい込んだんだ」
──死ぬよりつらい、地獄。
私の額に、ひとすじの冷や汗が流れた。
「それでも、お前は行くのか?」
身体が震える。怖い。でも……。

「……行きます」



無言。
石を削る音だけが、響く。



「……ありがとうございました」
私は一礼して、墓守の家を後にした。

街の出口で、私は振り返る。
いくつかの街の灯が、ぽつりぽつりと消えていった。宿の姫様の部屋は、まだ明かりがついたままだ。できることなら、このまま、私がいないことに気づかずにお休みになってください。
明日の朝までには、きっと──戻ってきます。



夜の闇は、私の心に潜む恐怖を倍増させる。……たったひとりで、私は、街を後にした。




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