◆愛を教えてくれた人-3-◆

いい香りがする……。

どこか記憶の奥底に覚えている、心安らぐ香り。
少し目を開けてみると、窓から差し込む柔らかい日差しが眩しい。

身体を起こしてみる。
走り続けた反動からか、身体中が痛む。
昨日の出来事は、あまりよく覚えていない。
それでも何だか、嬉しくて、幸せな心地良さと気だるさを感じる。

……私を、愛してくれる人、か……。

まだ、この腕の中にその温もりが残っているような気がする。



いつの間に着替えたのか、肌触りの良いローブ姿のまま、私はいい香りがする部屋へと向かった。
楽しそうな、小さな鼻歌が聞こえる。
「あ、おはようございます、クリフトさん」
「お……おはようございます……」
少し頬を赤らめたメイさんが、台所に立っていた。
いい香りは、メイさんが作っている料理の香りだったのか……。
「もう少しで朝ごはんにしますね。顔、洗ってきてください。廊下を真っ直ぐ行って右側です」
「判りました……」
メイさんからふんわりとしたタオルを受け取って、私は廊下に出た。



「……?」
廊下の途中で、私は不思議な違和感を覚えた。
あちこちに、小さなランプが置いてあった。
何だろうか……?



顔を洗って、台所に戻る。
小さな木のテーブルに、メイさんの料理が並んだ。
「ごめんなさい、神官さんてどんなもの食べてるのか知らなくて……食べられない物があったら、遠慮なく言ってくださいね」
──メイさんの言葉に、少し胸がちくんと痛んだ。
私はもう、神の教えを捨てた身。
私はもう、神官なんかじゃない……。
「……クリフトさん?」
「……あ、すみません、あの……」
不安そうなメイさんの表情。……そうだ、私は、メイさんにこんな顔をさせてはいけないんだ。
「……私は、もう……神官では、ありませんから……」
「あ……ご、ごめんなさい……」

メイさんのその姿が、表情が、私とふと目が合ったときの姫様の仕草を思い出させる。
悲しそうに目を逸らして、少しつらそうな表情で……。

「いえ、そんな……。本当に、いいんです。もう……過去のことは。メイさん、食事にしましょう」
「……そうですね。ごめんなさい」
にっこりと笑うその表情は、本当に姫様にそっくりだ。
駄目だ。こんな気持ち。メイさんの姿に重なる姫様の思い出を、私は必死に振り払う。




焼きたてのパンをひとつ、手に取った。
少し千切って、苺のジャムを乗せて口に運ぶ。

「……!」
何だろう、この感覚──そうだ、これは──ずっと忘れていた感覚──。



「……美味しい……!」



香ばしい焼きたてのパンには、胡桃のアクセント。
苺のジャムは自然の甘みをしっかりと蓄えていた。
コーンのスープを啜ってみる。
柔らかな甘みが鼻に抜けて、優しい後味が残る。
サラダに手を伸ばす。
大地と太陽の恵みをしっかりと湛えた野菜は、少し酸っぱいドレッシングを纏っていた。

食べ物って……食事って、こんなに……美味しかったんだ。
ずっと、ずっと忘れていた……。
いつも味気ない固いパンや薄いスープを、ひとり黙々と詰め込んでいたんだっけ……。
食事なんて、まるで石や砂を口に入れているみたいで、酷く苦痛だったのに……。



「よかった、いっぱい食べてくださいね。疲れてるでしょ?」
メイさんの言葉に、ふと我に返る。
思わず夢中になって、あまりに美味しいその料理の数々に手をつけていた。
「は、はい」

そうだ……。
この食事は、メイさんが、私のために、私のことを思って、楽しそうな鼻歌を歌いながら作ってくれたもの。ずっとずっと昔の、母が私のために作ってくれた食事、確かにそれは美味しかったはずだ。長いこと忘れていた、
出会うことの無かった、楽しい食卓。顔を上げれば、幸せそうな笑顔のメイさん。
これは……ずっと望んでいた、当たり前の小さな幸せ……?



「ごちそうさまでした。本当に、美味しかったです」
「あ」
「え?」
幸せな気分で満腹になった私の顔を見て、メイさんがぱあっと明るい表情を見せた。



「クリフトさんが、笑ってくれた」



えっ……?



「笑ってましたか、今」
「はい。素敵な笑顔でした」

意識しないで、笑顔を見せたことなんて、あっただろうか。
思わず恥ずかしくなって、顔がかあっと熱くなった。

メイさんの幸せそうな笑い声。
それにつられて、私も、声を上げて笑った。

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