◆茨-4-◆

……痛む胸に、そっと手を当ててみる。
いつのまに、私の心は、こんなにも醜く膿んでしまったのだろう。
こんな膿だらけの汚い心、誰も愛してくれる訳が無いじゃないか。

……だって、自分ですら、自分自身を愛することができないのに……。

掌が、ずっと首から下げていた十字架に触れる。
サントハイムの紋章と私の名が刻まれたその十字架を、ぎゅっと握り締めた。

「……神様……」

神官学校へ通い始めた頃から、ずっと、疑問に思っていたこと。
──神は、本当に、存在するのだろうか?
今、私は、その疑問に終止符を打った。



神は、居る。



ソロさんや姫様のような存在に光をあて、その影を私のような者に落とす。
そうやって、影の中で必死に光を求める存在を見て、笑っているんだ。
私に囁きかけてきた声、それは神の御声。裁きの呪文を与え、狂ったように歓喜する影の存在を嘲笑う。

「……っ」

力を籠めて、私は、その十字架を鎖から引きちぎる。
バラバラになった鎖は、まるで私の心に絡みついていた茨のようだ。

「こんなの……!」
靄に覆われた城に向かい、私はその十字架を放り投げた。
陽の光が反射して、一瞬きらりと光った十字架は、草叢の中に消えていった。

──と、同時に。

どん、と大きな音がして、城が、地面が、大きく揺れた。
あまりの衝撃にその場に膝をつく。

「……姫……様……」
あのときの、キングレオとの闘いを思い出す。あのような恐ろしい魔物と、今、皆様は闘っているんだ。
こんな私にも分け隔て無く接してくれた、ライアンさん。
戻るべき家が、家族がある、トルネコさん。
優しく私を包んでくれた、ミネアさん。
苦しくつらい人生を歩んできた、マーニャさん。
厳しくも優しかった、ブライ様。

悔しくも麗しく強い、伝説の勇者──ソロさん。

……姫様。



「く……っ」
握り締めた拳で、何度も何度も、地面を叩く。
「……くそ……っ」
今、私の心の中にある、葛藤。

行くべきなのか。皆様の元へ、闘いの場へ。

……いや……それとも。

それは、奇しくも、この旅の始まりに私が姫様に申し上げた言葉。



──時には、逃げるということが必要です。
──逃げることは決して卑怯ではありません。



「逃げる……?」
揺れは小刻みに続き、鳥たちがざわめく。
馬車に繋がれた馬が、驚きの嘶きをあげる。

「逃げる……」
もう、充分だ。今まで、よく頑張ってきたじゃないか。
誰も褒めてくれないのなら、せめて、自分で自分を褒めてみよう。
そうだ、色々な出来事に耐え、よく頑張った。
死ぬよりつらい地獄を味わう、太古の呪い。精一杯、その力に抗って……。
──もう……逃げても……。



「──うあああああっ──!」



救うと誓った城に、魔の手にある故郷に背を向けて、私は走り出す。
全ての音を遮るかのような大きな声を上げて。

涙が零れる。
時折、足元を取られ転んでも、転んでも、起き上がって私は走る。
化け物が襲い掛かってきても構わず、私は走る。
逃げる。逃げるんだ。何処へ、なんて判らない。ただひたすらに山道を走り、傷だらけになりながらも私は走る。
いつしか城を揺るがす轟音は遠くへ消える。
それでも、私は、全てを振り払うかのようにひたすら走る。

化け物に噛み付かれた傷が、引っかかれた傷が痛むような気がする。
いくつもの傷が、泥だらけの神聖な法衣を血に染めていく。



逃げろ。
逃げろ。
全ての出来事から、忌まわしい過去から、耐えられない今から、闇の中の未来から。
逃げて、逃げて、全てを振り払ってしまえ──。

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