◆月明かりの部屋-1-◆

「……クリフト。大丈夫か」

うっかり眠ってしまった私に、優しく声をかけてきたのはブライ様だった。
思わず、飛び起きる。

「も、申し訳ございません。大丈夫です」
「そうか。見えたぞ、サントハイムが……」

真っ直ぐに私を見つめるブライ様の瞳に、強い覚悟が見えた。
なんとしても、サントハイムを取り戻す。私たちはそのために、ここまで来たんだ。

甲板へ出ると、強い風に身体が煽られる。
舞い上げられた波が身体を濡らし、体温を奪っていく。

船の先端で、ソロさんと姫様が並んで、黒い靄に覆われたサントハイムの城をじっと眺めていた──。



私たちはサランの街へと再び足を踏み入れた。
姫様の姿を見て、わっと人々が押し寄せて来る。
「姫様、ご無事で」
「姫様、どうかサントハイムを」
「姫様、私の息子を、どうか」
「姫様」
「姫様……」
次々と休みなく押し寄せて来る人々。姫様はしっかりとその手を握り、話を聞く。

「……みんな、ありがとう。あたし、負けないよ。だって、伝説の勇者さまが来てくれたんだよ!」

姫様の声に、人々が一斉に視線をソロさんに投げかけた。
少し照れくさそうに、ソロさんは濡れた髪をかき上げた。

「姫様、勇者さま、どうか宿でお身体を休めてください。すぐにお風呂とお食事をご用意します。
皆様もご一緒に」
宿の主人の案内に、皆が歩き出した。
──私はその場に、ひとり、立ち尽くす。
「クリフトさん、どうぞあなたも……」
屈託無い笑顔で、宿の主人は私の名を呼ぶ。どことなく、トルネコさんに似た風貌で……。
「……いえ。私は、結構です。部屋に戻ります。少し、やり残したことがありますので」
「そうですか。判りました。お食事とか、必要でしたらいつでもお越しください!」
「はい。ありがとうございます」

わいわいと賑やかな声の一団が、宿へ向かって歩き出す。
街の人々が姫様とソロさんに声援を送る。
そんな光景から目を逸らして、私はその場を後にした。



教会裏手にある、日当たりの悪い一角に、身寄りの無い神官学校の生徒と、神官たちの宿舎がある。
荷物から鍵を取り出して、私は自分の部屋の鍵を開けた。
鍵に付いた革紐の先端で、群青の宝玉が小さく揺れた。

締め切った部屋は、湿っぽい。でも長く住み続けたこの部屋は、やはり落ち着く。
ベッドがひとつと、小さな机。それに箪笥がひとつ。それだけで一杯になるほどの狭い部屋。
初めてこの部屋を与えられたときは、不安で不安で、眠ることができなかった。
外はまだ明るいのに、この部屋はいつも薄暗い。明り取りに、天井に小さな窓があるだけだ。

湿った服を脱いで身体を拭いて、箪笥に仕舞ってある部屋着に着替える。
そのまま、ベッドに仰向けに寝転がった。
窓に切り取られた青空が見える。流れていく雲をぼんやりと眺めた。
「はあ……」
ため息が、零れる。
ずっと長いこと、私はこの小さく切り取られた空を眺めてきたんだ。
その風景は、ちっとも変わりはしない。
一体、私の人生は何だったんだろう。

もし、母とずっと一緒に暮らしていたら、もっと素直な心で生きていられただろうか。
確かに母は私を捨てたが、それまでは私にとても優しくしてくれたじゃないか。
暖かい手袋を夜中までかかって編んでくれたり、自分は食べずに私に食事を与えてくれたり。
それなのに──。

ああ、また、耳鳴りがする……。



コンコン、と扉を叩く音がした。気のせいだろうか。
ゆっくりと、起き上がってみる。

「……クリフトさん?」

ミネアさんの声がした。
「あ、はい、どうぞ」
「すみません、勝手にお部屋の場所をブライさんに伺って……」
そう言って扉を開けたミネアさんは、笑顔で私に包みを差し出す。
「お食事です。宿のご主人から。召し上がってくださいね」
「すみません、ありがとうございます。よろしくお伝えください」

ミネアさんはそっと、私の部屋を見回した。
「すみません、狭い部屋で……しばらく帰ってなかったものですから、湿っぽくて」
「いえ。私、こういう部屋好きです。ずっと姉さんと一緒なんで、ひとりの部屋には憧れます」
滅多に人など尋ねてこないこの部屋に、ミネアさんをお迎えするような仕度は整っていなかった。
机に向かうときに使う硬い椅子を取り出して、ミネアさんに勧めた。
空はもう夕焼けの赤と、夜の闇とが混じった色をしていた。
「あ、灯りを……」
机にあるランプに目をやるものの、長い留守の間に、埃と油の塊が溜まってしまっていた。
「……すみません、本当に色々と……」
「構いませんよ」



……会話は、続かない。



「あ、あの。バルザックは、ミネアさんのお父様の仇、でしたよね」
「はい……」
「私も、頑張ります。負けません。もう、あんな失態はお見せしません」
「……」

ミネアさんが、小さく震える。
月明かりだけが差し込むこの部屋に、何故かミネアさんの姿は似合っていた。

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