◆祈り-1-◆

かあん……。
かあん……。

遠くで、澄んだ鐘の音が聞こえた。
心地よい、神聖な鐘の音だ……。

少しひんやりとした風が、さらさらと髪を揺らした。
だんだんと戻ってくる、五感。



……生きてる……?



自分の右手を動かして、目の前に持ってくる。
掌を握ってみる。
掌を開いてみる。

ああ……動く。身体が、思い通りに動く……。

重い身体を、ゆっくりと起こした。
ズキンと、痛みが走る。
この痛み。やっぱり、あの出来事は夢じゃなかったんだ。

ぼんやりとしていた視界に、鮮やかな色が蘇ってくる。
ここは、あの港町の宿屋だ……。

辺りを見回してみる。
──誰も、いない。



急に、不安が頭を過る。
……置いていかれた……?

まさか。そんなことは……。
でも。もしかして。
思い出されるのは、置き去りにされたあの日。
私の人生が、大きく変わってしまったあの日。

「……だれ、か……?」
呟いてみる。
応える声は、無い。

「誰か……」
不安で、怖くて、身体が震える。
どこかで願っていたんだ、誰かが私に懸命な介護をしてくれていることを。
病気の子に付き添う、母の姿のような……。

「誰か……」
身体の痛みを堪えて、ベッドから降りる。
床に脚をつけると、重力でぎゅっと傷口が傷む……。
それでも、この不安に打ち勝とうと、一歩ずつ扉に近づく。

扉を開けても、人の気配は無い。
身体を引き摺るようにして、ゆっくりと階段を下りていく。
「誰か……誰か……」
誰でもいい。
私を……置いていかないで……。



「……クリフトさん!」



聞き覚えのある声がした。
私ははっとして、その声の方向を向く。

「……ミネアさん……」

ミネアさんが手にしていた荷物を床に落とす。
その美しい瞳から、ぽろぽろと涙が溢れた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……。薬草を切らしてしまって……」
──そうだったのか。
ミネアさんは、私のために薬草を買いに行ってくださっていただけなのか……。
「……よかった。目が覚めて、本当によかった……」

その姿に救いを求めたくて、私は思わず腕を伸ばす。
でも……。
そっと、その腕を、下ろした。

「……ご心配を……おかけしました……」
ミネアさんは子どものように泣き声を上げて、私の名を呼び続けた。
「ごめんなさい。目が覚めたとき、傍にいてあげなくて……」
……判っているんだ、ミネアさんは。私の、子供のようなこの不安を……。
「……大丈夫です」



ミネアさんなら、私ことを判ってくださると。
私のことを心配してくださると。
たとえ、その心が別の人を見ていようとも……。

嘘などつけない清い心。
聖母のような優しい心。
──もし、姫様よりも先に、あなたに出会っていたら……。



「クリフトさん。お部屋に戻りましょう。包帯を新しいものに替えますから……」
「……はい」
泣き続けて真っ赤に腫れあがった瞼を、照れくさそうに隠しながら、ミネアさんが優しく微笑む。
……そうだ。あなたには、そんな笑顔が似合います。



部屋に戻ると、私はベッドに腰掛け、ミネアさんの姿を見上げた。
「服……よろしいですか……?」
「あ……」
褐色の頬を薄く染めて、ミネアさんが私の服に手をかける。
「い、いえ、自分で……」
そう言ってボタンを外そうとしても、指先が痺れて上手く動かない。
「ふふっ」
ミネアさんがボタンに手をかけて、ゆっくりと外していく。

ど、どうしよう。
何だか、ドキドキする……。

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