◆腕輪-1-◆

靄の中へ、足を踏み入れる。
むっとするような血生臭ささが私の身体を包み込む……。
生温かいのに、身体中には寒気。気が狂いそうだ。
サントハイムとは異なる、異様なほどの魔物の気配。
サントハイムでは、あまりに何も無い気配がぞっとする恐怖を与えていたのに。

「──……!」
何か、叫び声が聞こえた。ソロさんたちがその声の方向へ向かって走り出す。
少し遅れて、私とブライ様、トルネコさんが後を追う。

廊下の角を曲がると、派手な鎧を身につけた男が剣を振っていた。
相手は、城の兵士のようだ。
しかし、そこに混じって、魔物の姿も見える。
「お前たちは、ここで待て。俺たちが行く」
曲がり角の壁に身を寄せて、私たちは隠れる。
ソロさんが剣を抜き、姫様が鉄の爪をしっかりとはめ直す。
ミネアさんとマーニャさんは手を取り合って、何かを呟きながら、目を閉じる。

走り出したソロさんの後を、姫様たちが追った。
思わず走り出しそうになる私の身体を、ブライ様がしっかりと捕まえる。
「クリフト。ここは勇者殿に任せよう」
「何故ですか。私たちは姫様をお守りすることが役目のはずです。それなのに」
「黙れ、クリフト」

きいん、と甲高い剣の音が響く。一時の静けさの後、ずんと地響きのような音がした。
そっと、廊下の角から顔を出す。
壁に大きな穴が開き、そこから黒い靄が渦を巻きながら流れ出していた。
ソロさんたちが、その穴の中へゆっくりと向かっていく。

あそこに、いるのか。
キングレオ……。



「大丈夫ですかねえ、ソロさんたちは」
大きな身体を屈めて、小さく震えているのは、トルネコさんだ。
「伝説の勇者殿が、このようなところで負けるものか」
……そうだ。ブライ様はソロさんを信頼している。私などより、姫様の御傍にいるべき者として、認めていらっしゃるのだろう。
ソロさんの指示に従っていれば、ブライ様は私を褒めてくださった。
そして、その闘いの結果は、いつも勝利だった……。

旅を始めたとき、私は姫様に命を救われた。
テンペでは、気を失っている間に、闘いは終わっていた。
フレノールでの出来事は、誰が知るところでも無い。
私がデスピサロと対峙したことも……。

情け無い。
そんな私を、誰が信頼するものか。



「……!」
城全体が、轟音と共に揺れる。
天井からいくつかの装飾が落ちてくる。
渦を巻く黒い靄が、私たちの周りを包み込む……。

壁の穴から弾き飛ばされる人影。
まさか、姫様──?
私は、その人影に向かって走り出した。
「……ミネアさん……!」
全身に傷を負ったミネアさんが、虚ろな目で壁の穴に手を伸ばす。
「……キング……レオ……っ……!」
その目から涙が溢れた。悔しそうな表情。立ち上がろうとするその身体に、私は治癒呪文を唱えた。
「ミネアさん。休んでいてください。私が代わります」
ミネアさんの手をしっかりと握り締めて、私は囁く。私の心を救ってくださった、優しい方。
今度は、私が──。

靄に押し戻されそうになりながら、私は壁の穴の中へと向かった……。



薄暗い部屋の中に、生臭い空気が渦巻く。
肉が焦げる臭いと、血の臭い。崩れた石壁の埃。
はぁ、はぁ、と、獣臭い息遣い。埃の中に佇む大きな影が、息遣いに合わせて上下する。

少しずつ、目が慣れて、その姿が埃の中に浮かび上がる。



「──!」



何だ。この異様な姿は。
むくむくと浮かび上がる醜い肉塊。
顔の端まで裂ける大きな口から垂れ下がる、粘り気を帯びた唾液。
何本あるのだろうか、その関節すらも不気味な方向を向く腕。
ぎらぎらと光る目には、何かの執念を感じた──。

怖い。恐ろしい。
身体中が震えて、動かない。そう、デスピサロと対峙したときのように。

「──クリフト!」
私を呼ぶ声に、はっと我に返る。
埃にまみれたソロさんの姿、傷を負った姫様の姿、膝をつくマーニャさんの姿。
こんなにも恐ろしい姿と対峙しながら、一歩も引かないその強い瞳。
先ほどの派手な鎧の男は、キングレオが召喚したと思われる魔物を次々となぎ倒していく。
「──いいか。作戦通りだ」
作戦。しまった、私は宿で作戦など全然聞いていなかった。
少し辺りを見回して、私は私の役割を探す。

落ち着け。
考えろ。

私はスクルトの呪文を唱えた。身体の周りに空気の渦が出来、攻撃を受け流す。
ソロさんが剣を振り上げてキングレオに向かう。キングレオの視線がソロさんに向いたことを確認した姫様が、群青のマントを翻してしなやかな身体で空を舞う。
マーニャさんが放つ炎の魔法と、キングレオが放つ氷の魔法がお互いを打ち消して、ぱあっと光を放つ。

落ち着け……!
目を閉じて、神の教えを思い出す。
気が狂いそうな、逃げ出しそうなこの状況から少しでも救いを求めるために。

傷を負った姫様の身体に治癒呪文を唱える。
ソロさんとマーニャさんにも、休む間も無く治癒呪文を唱え続けた。
私の役割は……そうだ。誰一人として、死なせてはいけないことだ。

治癒呪文が放つ仄かな光に反応したかのように、キングレオが私の方を向く。
「……腕輪ァ……」

「え……」

ずん、と大きな足音を立てて、キングレオが一歩、私の方へ歩み寄る。

「腕輪ァ……! 腕輪が、あるのかァ……!」

一歩。また一歩。
ソロさんや姫様の攻撃を払いのけながら、キングレオは私に向かう。
──どういうことだ。

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