◆美しき、悪-9-◆

宿に戻ると、私は急ぎ傷の治療をし、服を着替えた。
そのまま、何事も無かったかのように、コロシアムに戻る。

「クリフト、どこへ行っておった」
「申し訳ありません。ブライ様、姫様は……」
未だ降り止まない雨の舞台へ目を移すと、そこに立つのは姫様ひとり。
他の参加者たちは、逃げ出したのだろうか……。

少しずつ、雨が小降りになっていく。雲の隙間から、既に赤くなりかけた陽の光がうっすらと見えた。
「……日没までに、このまま誰も来なければ……姫様の優勝となるそうだ」
「そうですか。大丈夫です……奴は、来ません」
私の言葉に、ブライ様が少し怪訝な顔をされた。何かを問おうとするかのように口を開いたとき、大きな歓声が沸き、その声がかき消される。雨の上がった舞台に、エンドール王とモニカ姫が姿を現したのだった。

エンドール王がすっと右手を上げると、歓声が一気に引く。私とブライ様も固唾を呑んで、エンドール王の言葉を待った。

「サントハイムの姫よ。よくぞこの場に戻った」
それだけ言うと、エンドール王は姫様の右腕を高々と掲げた。同時に、陽は地平線の彼方に落ちる。

──観客席から、今までに無いほどの大きなうねりが起きる。まるでコロシアム全体が波に呑まれたように揺れ動く。
モニカ姫が姫様に泣きながら抱きつき──お互いに何かを語り合い、再び、強い抱擁。
「よかった……」
ブライ様がひとつ大きなため息をつくと、ゆっくりと舞台に向かって歩み寄る。

私は、その晴れ姿を、遠くからただ眺めていた──。
言わないでおこう。私が余計なことをしてしまったことは──。

「……くしゅん」
冷えた身体が少し震えて、くしゃみが出る。その拍子に、治りきらない肩の傷がズキンと痛んで、その場に小さく蹲った……。



篝火の焚かれた街のあちこちで、姫様の強さと美しさを称える祭りが行なわれていた。
昼の天候とはうって変わって、空には満天の星。私は城内での宴の誘いを断り、ひとり星空を見上げながら宿へとゆっくり歩みを進める。
デスピサロは何をするつもりなのだろう。ひとときの幸せ──それが、この優勝の悦びだとしたら──私たちを絶望に陥れる何かを、奴は仕掛けてくるのかもしれない。
そして……私たちにだけではなく、多くの人々に同じ苦しみを味合わせるのだろうか。
もし、もしそうだとしたら……私は、とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。

「……?」

生臭い空気が一瞬渦を巻くと、ふと、デスピサロの声が聞こえたような気がした。
その声に、言いようのない不安を感じて──。



「姫様。もう、ご満足でしょう。戻りますぞ、城に」
「えー、もう?」
祭りは既に三日続く。姫様をひと目見ようと集まってくる人々に、フレノールでの出来事を思い出させた。
「……ねえ、ちょっとボンモールまで行ってみたいなあ……」
「なりません!」
ブライ様の有無を言わせぬ怒声に、姫様が頬を膨らませる。私は──どうにも胸騒ぎがおさまらない。首の痣はいつまでも消えず、それどころかじくじくと嫌な熱は、私の鼓動に合わせて時に灼熱の痛みとなる。肩の傷はだいぶ癒えていたというのに──。
「クリフト、わしらは王様に挨拶をしてくる。帰り支度をして宿で待っておれ」
「判りました」
城に向かうブライ様の周囲を、姫様はクルクルと回る。甘えているのだろう、ブライ様に。まだ帰りたくないのは、姫様だけではなく……私も、同じだけれど。

終わるのか、これで……。
姫様との旅が──姫様との生活が。
私は、ひとつ深いため息をついて、唇をぐっと噛み締めた。



「ねえ、デスピサロはどうして来なかったのかなあ?」
サントハイムへ帰還の道中……姫様の言葉に、私は一瞬その歩みを止めた。肩の傷が少し痛んで、表情が歪む。
「そういえばクリフト、お主……デスピサロは来ない、と言っていたな。何か心当たりでも?」
「いえ……なんとなく、そんな気がしただけです」
帽子を深く被りなおし、表情を見られないように顔を背ける。──私は嘘が苦手だ。そのまま歩みを少し速める。そんな私に、姫様も歩みを速めて、ぴったりと横についた。
「クリフト、何か隠してる」
「隠してなど、いません」
「嘘。クリフトは嘘をつくとき、そうやって左手で服をいじくりまわす癖があるんだもん」
……えっ。私は思わず、左手をふと見つめた。その手は服になど触れてはいない。
「……嘘だよ。……やっぱり、クリフト、何か隠してるんでしょ」
──ひっかけ、か。姫様には敵わない……。深いため息をついて、歩みを止めた。

「デスピサロに会いました」
「それで」
「……大会には、出ないと。それだけでした。理由までは存じません」

姫様は私から目を逸らさない。私も姫様をじっと見つめ、嘘では無いということを伝えようとする。

「……そっか」
小さな声で呟くと同時に、姫様は再び歩き出す。残念そうな、しかし安堵したような顔。
もし……姫様とデスピサロが闘っていたら……おそらく、姫様は……。
「まあ、何にしても、姫様がご無事でよかった。……お主も、な」
ブライ様が私の背をぽんと小さく叩いて、笑顔で囁く。ブライ様は何か感づいているのだろうか……?



苦い思い出のあるフレノールには寄らず、野宿を二回。
明日は、テンペに向かおう。そして城に着けば……姫様との、お別れだ。


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