◆連鎖◆

私は馬車に残った。



何が正義なのか判らない。
何が悪なのか判らない。
今まで信じてきた神の教えが判らない。

私は、ピサロさんに剣を向けることはできない……。

馬車に残ると言った私に、ソロさんが罵声を浴びせる。
姫様が軽蔑の眼差しを向ける。
ライアンさんが励ましの言葉をかける。

私は、イムルの村で見た夢を忘れることはできない……。



ピサロさんをここまで暴走させてしまった責任は、我々人間のものなのか。
だとすれば、ピサロさんが人間を滅ぼそうとするその行為は仇討ちなのか。
それとも、食物連鎖の最上位に立つ人間の上に、初めて出現した恐怖の対象なのか。

幼い頃に見た光景を思い出す。
木の上でピイピイと鳴く生まれたばかりの小鳥。親鳥が愛し子のために餌を探しに飛び立ったそのとき、近くの山から降り立った大きな影。
その影は迷うことなく小鳥に狙いを定め、その首を一瞬で食いちぎる。
小さな生命はその短すぎる生涯を、ピイ、という小さな声を立てて幕を下ろした。
ほんの今まで元気に鳴いていたその小鳥は物言わぬ塊となる。
確かに存在していたその生命は、他の強者の糧となり、消化されこの世から完全に消え去っていく。

誰がその影を咎めることができるのだろうか?
その影から見れば、小鳥はただの糧に過ぎない。摂取しなければ自らの生命が尽きてしまう。
その糧にすら、家族や人生があることは、摂取する側には全く関係の無いことなのだろう。



人間は違う。
ただ生きるためにのみ生命を奪うだけではない。
自らの欲望のため、富のため、名誉のため、その生命を軽々しく扱う。
ロザリーさんはそんな人間の軽微な欲望のため、その生命を失った。

もし、私の目の前で、何者かが姫様を手にかけたら。
私もピサロさんと同じように復讐を誓うだろう。
たとえこの魂を、この身体を失うことがあっても。
仇を討つ力を手に入れることができるのであれば、何を失おうとも、その力に縋るだろう。



その仇を討った後に、何が残る?

例え親兄弟や愛する人を失っても、神はその仇をも加護の対象とする。
例え目の前で仇が笑っていようとも、その仇を討つことは許されない。
神は、罪を許せと説く。
私はその教えを、ピサロさんに説くことはできるのだろうか?
目の前で、愛する人を、不条理な理由で失った者に対して。



「難しいことはさ、判んないよ、アタシには」
後ろを守るため共に馬車に残ったマーニャさんが、思いつめた表情の私を心配し声を掛ける。
「理屈じゃ、ないんだからさ」
マーニャさんは、私が手に握り締めていたロザリオを奪い取る。
「神様が何を言いたいのか、じゃない。あんたが、どうしたいか、あんたが、何を守りたいか、でしょ」
少し声を荒げたマーニャさんがロザリオを馬車の外へ投げ捨てる。一瞬キラリと光ったロザリオは、深い闇の中へ吸い込まれていった。
「ピサロに正義があったって、アタシたち人間が悪だって、そんなのどうでもいいよ。アタシは死にたくない。アタシは楽しく暮らしたい。アタシは幸せでいたい。アタシが幸せでいるためには、失えないものがある。ただ、それだけ」
私の代わりに馬車を出たミネアさんを気遣うように、マーニャさんは外を気にしている。

「私は、守ってもらうために皆様と一緒にいます」
トルネコさんは少し申し訳なさそうに、小さな声で呟く。
「卑怯者と呼ばれても構わないんです。笑われても構わないんです。それでも、私は、死ねない」
肌身離さず身に付けている家族の写真を握り締め、トルネコさんは小さく震えた。

「おぬしにしか、できぬことがあるだろう」
マーニャさんと同じように、馬車を出た姫様を気遣うブライ様が私に声を掛ける。
「おぬしが守るべきものの重さが、神の教えより軽いものであれば、このままここに残っておれ……」
私は物心ついたときから神の教えと共にあった。
理屈では判っている。どのような綺麗な言葉を並べようとも、理不尽に愛する者を奪われた者の心には届かないのだと。
それでも、身体の隅々まで染み込んだこの教えを打ち破ることができない。
私が今まで信じてきたものが一瞬にして崩壊したとき、私自身が耐えられるかどうかが判らなくて。



遠くで大きな音が聞こえ、砂煙が立った。その振動で、馬車が大きく揺れた。
その音にかき消されるかのように、小さな悲鳴がこだまする。

「ミネアー!」
「姫様ー!」
マーニャさんとブライ様が同時に大切な人の名を呼び、馬車から身を乗り出す。
トルネコさんがそんな二人を必死に引き止める。
「今は危険です! ここはソロさんに任せて……!」
砂煙が去ると同時に、血生臭さと生暖かさが辺りを包む。そのあまりに不快な臭いは、この世の全ての憎しみを開放するかのように急速に広がっていく。
私の心臓がひとつ、ドクンと大きく脈打った。
同時に、私を呼ぶ声がする。

──姫様の声だ。

「……姫様ー!」
私は思わず馬車から飛び出す。遠くに、微かに聞こえたその声は、あまりに切なく細い声だった。



吐き気を催すようなその空気の中に、見たことの無い異形の生物が静かに佇んでいる。
そのあまりに不気味な姿は、周囲の血生臭さや生暖かさなど忘れさせ、寒気すら感じさせた。
「クリフト……てめえ……」
全身に傷を負ったソロさんが私を睨み付ける。
「……遅かったじゃねえか……」
ソロさんは微かに微笑む。そんな余裕など無いほど傷を負っているというのに。

私の前には、先ほどまで確かに私と話をしていた、生きていたはずのものが、ただの肉塊として転がっている。

……そう、姫様までも……。

その姿を目の当たりにしたとき、私の身体に染み付いた教えの全てが消えていくのを感じた。

先ほどまで判らなかった正義や悪。そんなものを超越した、私の中だけの『裁き』。
誰が正義であろうと、誰が悪であろうと、そんなものは関係なく。

「姫様ー!!」
私の口から、生命を一瞬にして奪う呪文が詠唱された。
少しずつ傷を負わせるなどもどかしく。大切な人を奪い去った者を、私の目の前からほんの少しでも早く消し去りたかった。
しかしその呪文は、異形の者を包みこむ不思議な壁により跳ね返され、詠唱者……私を襲う。
「バカ!」
ソロさんの怒声に、私は我に返る。
私は、今、何を……?

呪文の詠唱には精神の集中が必要になる。我を忘れた私の呪文には、生命を奪い去る効力など存在していなかったことが幸いした。
「落ち着け、クリフト! お前が今やるべきことは、そんなことじゃねえだろ!」
目の前に佇む異形の者は、あのピサロさんなのか。進化の秘法とは、これほどまでに悲しい術だったのか。
ピサロさんはこれほどまでに私たち人間を憎んでいたのか……。
私の中に再び、迷いが生じてくる。
「俺がピサロを引きつける。その間に、お前はアリーナたちを」
天に召されようとする魂を、この世のあるべき肉体に戻す呪文の詠唱には、他のどのような呪文より強い精神力と集中力が必要となる。私が詠唱に集中できるよう、ソロさんは傷ついた自らの身体を使うというのか。
「……これは、俺の仇討ちでもあるんだ」
ソロさんは小さく呟くと、剣を握り締め強大な敵へ向かって行く。

人間により愛する者を奪われたピサロさん。
ピサロさんに愛する者を奪われたソロさん。
どちらも正義で、どちらも悪なのか。
もう、私には判らない。

目の前にぐったりと横たわる姫様と、その身体に苦痛を与えたであろう者を交互に見つめ、私は迷いを断ち切る。
「私は……」
肉体より遠く離れて行く魂を追いかけ、私は手を差し伸べる。私の問いかけに応えた魂は、ゆっくりと私の導く先の肉体へと還っていった。
「……もう、迷いません」
姫様はゆっくりと目を開く。私の顔を見て少し照れくさそうに微笑んだ。
「バカ……」
そうですね……ソロさんにも言われました。私は、バカです。

ライアンさん、ミネアさんの魂を、続けてあるべき場所へ導く。
「ライアンさん、私はもう大丈夫です」
私の言葉に、ライアンさんはにっこりと笑って応えた。私には記憶の無い、父親のような優しい笑顔。
「ミネアさん。休んでいてください」
肉体から魂が離れた恐怖に、ミネアさんは震えが止まらない。マーニャさんが馬車から飛び出し、ミネアさんを背負い急ぎ足で馬車へ引き返す。



心を失ったであろうピサロさんを、再び見つめる。
こんなにも悲しい姿になる前に、私たちに出来ることはなかっただろうか。
憎しみとは人をここまで追い詰めるものなのか。
一歩間違えば、ソロさんや私も、このような姿になっていたのだろうか。

仇を討った者は、次は仇として狙われる番になるのだろう。
愛する者の仇として人間を狙ったピサロさん。その仇として生命を奪われたシンシアさん……。
そのシンシアさんの仇を討つために立ち向かうソロさん……。
いつまでもいつまでも断ち切れない悲しい運命の連鎖……。

正義、悪、そんなものは関係ない。
私はここで悲しい仇討ちの連鎖を断ち切るために、闘う。


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