◆自由の代償◆

「ごめんね。お待たせ」
サントハイム裏手にある小さな泉のほとり。
ここは、めったに人が来ない、あたしの秘密の場所。
昔はお父様やお母様に叱られたときの逃げ場として、そして今は、クリフトとの待ち合わせ場所としてここに訪れる。
「いえ、私も今来たところですから」
あたしは芝生に座るクリフトの足の間に腰を下ろす。
クリフトの胸に寄りかかると、クリフトは後ろからあたしを軽く抱きしめる。
ここはあたしの定位置。誂えた椅子のような、心地よい居場所。

あたしとクリフトの仲は秘密のものだから。
誰にも、知られてはいけないものだから……。
そう言い聞かせて、もう何日経っただろう。
王女と神官。許されない恋、か……。
お芝居やお話の世界ではよくあることなのに。
まさか、自分の身に降りかかるとは思ってなかった。

「姫様」
クリフトがあたしの頭に顎を乗せて、そっと口を開く。
「なあに?」
「……いえ、なんでもありません」
そう言うとクリフトはあたしを抱く腕に力を込める。
なんだか不安げな言葉。
「言ってよ。気になるじゃない……」
クリフトの腕の力が、少し緩まる。そのまま、あたしの両肩へ手を置いた。
「……このままでは、やはり、いけないと思います……」
聞きたくない言葉。だけど、現実の言葉。
この距離感は心地よいけど、いつまでも続けられるものじゃないというのは、あたしにも判っていた。

あたしにも縁談がいろいろと舞い込む歳になった。
あたしはクリフトとのこんな関係を少し進めたくて、お父様に冗談ぽく言ったことがある。
『お見合いなんてやだな〜。あたしはあたしのことをよく知ってる人がいいんだよね〜。ねえ、クリフトなんてどうかな?』
お父様の返事は、厳しいものだった。
『お前の夫になる者は、王族になるのだ。修行の旅の共を選ぶような気持ちで選んではいかん。相応しい教育を受け、相応しい家柄の者でなければならん』
あたしは何も言えなかった。
だけど本気で言っていることを悟られたくなくて、冗談よ、と笑ってやり過ごした。

「そうかもしれない。だけど、今は……こうしていたいから。ごめんね。お願い……」
こんな関係はクリフトを傷つけるだけなのかもしれない。
いくら愛し合っても、結ばれることのない関係。
いずれは引き裂かれるのだろうけど、その日まではこうしていたい。
それが明日なのか、一年後なのか、判らないけど。



翌日の昼、あたしはお父様に呼ばれて玉座に向かった。
そこにいたのは、お父様、大臣、神官長、ブライと、そして……クリフト。
「アリーナ。お前に聞きたいことがある」
お父様の険しい表情。俯くクリフト。
もう、これだけで充分だった。お父様が何を言いたいのか。
「……昨日、お前とクリフトが、裏手の泉で一緒にいるところを見たという者がいる。本当か?」
「……うん」
その後は長い沈黙。
誰も言葉を発することができなかった。

「……クリフト」
ゆっくりと、お父様がクリフトの名を呼んだ。
クリフトは答えない。
「……少し、長くアリーナの傍に置きすぎたようだ……」
クリフトは俯いたまま、ただじっと黙っている。
「……お前が素晴らしい人物であることも、この国だけではなく世界を救ったことも、充分に判っている……」
「だったら、だったらどうしてダメなの! クリフトのどこがいけないの!」
あたしは耐えられなくなって思わずお父様に暴言を吐く。
そこまで、クリフトのことを褒めておきながら、どうしてクリフトじゃいけないの。
「姫様。おやめください」
クリフトがあたしを制止する。
その言葉に思わずあたしの目から涙がこぼれる。
「どうして。どうして。身分が低いっていうなら、この国を救った人物として相応の身分を与えればいいじゃない。王族として相応しい教育を受けてないなら、これからやればいいじゃない。どうして……」
「……クリフトは」
お父様があたしの言葉を遮る。あたしはその答えを聞きたくて、じっとお父様を見つめた。
「……出生が判らん。こればかりはどうしようもない」
あたしはお父様の言葉の意味が判らず、思わずきょろきょろとあたりを見回す。
「そういうことです、姫様。私は、捨て子ですから、血縁関係が判らないのです」
クリフトの諦めの表情。そんな表情を見せたのは、初めてのことだった。
「クリフトに相応の身分を与えれば、クリフトの親だ、兄弟だ、親戚だという者が現れるかもしれん。天涯孤独であればそれはそれでいいだろう。ただ……サントハイムに仇なす者である可能性もある、ということだ」

あたしの自由を縛る、サントハイム王家の血。
そんなのは、あたしだけだと思っていたのに。
クリフトまで、どうして、血に縛られなきゃならないの。
血だけは、努力しても、どうにもならない。
捨てたくても捨てられない。欲しい人には手に入らない。

「神官長。クリフトに、新しい赴任先を探してやってくれ」
神官長は軽く頷くと、その場を後にする。
「ちょっと待って。新しい赴任先って……」
「これ以上、クリフトをお前の傍に置いてはおけん。サントハイムから出ていってもらう」
お父様の残酷な言葉。
どうして。クリフトは何も悪くない。
「嫌よ! どうしてクリフトだけが。あたしだって……」
「姫様。おやめください……」
クリフトは、諦めの表情のまま、優しくあたしに微笑む。
「今まで、ありがとうございました。姫様にお会いできたこと、このクリフト、一生忘れません」
やめて。そんな言葉、聞きたくない。
こんなことで終わってしまうなんて……。
大臣がそっとクリフトに近づき、ここを去るように促す。
クリフトが離れると、あたしはその場にへたり込む。
昨日まで、あんなに幸せだったのに。
昨日まで、あんなに楽しかったのに。
昨日まで……。



夜、自分の部屋のベッドの上で、あたしはぼんやりと自分の手のひらを見つめる。
うっすらと、自分の身体に流れる血が見える。
あたしたちの自由を縛る血。
あたしたちの未来を奪う血。
だけど、あたしと、お父様とお母様を繋ぐ血。
確かな絆を感じる血。
いろいろな思いが頭の中を駆け巡る。

コンコン……

窓を叩く音が聞こえた。
あたしはびっくりして飛び起きる。
ここは3階なのに……?

慌てて窓を開けると、青い顔のクリフトが必死に窓枠にしがみついていた。
「ク、クリフト」
「静かにしてください」
クリフトはそのまま、あたしの部屋へ入ってきた。
「はあ……はあ……」
真っ青な顔。よっぽど怖かったんでしょうね。
「どうしたの、クリフト……」
あたしはクリフトの冷や汗を拭いながら訊ねる。
「……姫様」
クリフトは姿勢を正し、まっすぐにあたしを見つめる。
「私はこれからサントハイムを捨てます」
「え……」
確かにサントハイムから出て行くようにお父様は言った。
だけど、捨てるって……?
「私は、私の力で、行き先を決めます」
クリフトは、あたしの肩を力強く掴む。

「姫様。私と一緒に来てください」

クリフトがあたしを見つめる。
今までに無い、真剣な表情。
そして、心のどこかで、望んでいたその言葉。
お芝居やお話の中で、何度も見たこの光景。

「あたしは……」

どうしたらいいんだろう。

「クリフトと、一緒に……」

この言葉を待っていたはずなのに。
クリフトと一緒になれる、自由になれる、この言葉を。

「……行けない。ごめん……」

あたしはクリフトの目線から逃れるように顔を背ける。

クリフトはしばらくそのままあたしの肩を掴んでいたけど、ゆっくりとその手を下ろした。
「……判りました」
恐る恐る、あたしはクリフトの顔を見る。
クリフトは、優しく微笑んでいた。
「姫様には、この国を背負っていく使命があります。それを捨てて自らの幸せのみを求める方とは、思えません」
クリフトの言葉に、涙が溢れてくる。
あたしは、自分で、自由を捨てたんだ。
「……クリフト。サントハイムのみんなが消えた日のこと……覚えてるよね……?」
「はい」
「そのとき誓った。あたしは絶対、サントハイムを元に戻してみせるって。それで……サントハイムは元に戻った……」
「はい……」
「あたしはあのときのことが忘れられない。あの旅の途中、がんばって笑ってたけど、すごく辛かった。みんなが戻ってきたとき、あたしは誓ったの。もう二度と、こんな思いをしたくないって。あたしはサントハイムを守っていくんだって」
「……はい……」
「だから……行けない。あたしは、サントハイムを捨てることはできない」
今度はしっかりと、クリフトの顔を見て言う。
「姫様」
クリフトはずっと微笑んだまま、あたしのことを見つめている。
「立派に、なられたのですね……」
「そうかな……」
思ってもみなかった言葉。ちょっと、照れくさい。
確かに、今までのあたしだったら、すぐにでもこの城から抜け出していたかもしれない。
でもそれは、戻れる場所があるから。
安心して、城を空けていられるから。
きっと、そうなんだろうね……。

「姫様。素晴らしい伴侶と出会えることを、お祈りしております」
「ありがと……」
あたしは思わずクリフトの胸に倒れこむ。
もう、これで、最後なんだね……。
クリフトとこうしていられるのも。
だけど、いつもならすぐにあたしを抱きしめるクリフトの腕は、下ろされたままだった。
「クリフト」
あたしはクリフトの唇に自ら近づく。
今まで、あたしたちは、ただ抱き合うだけだった。
それ以上は、何もない、子供同士みたいな恋愛だった。
「……おやめください、姫様」
クリフトはあたしの身体を突き放す。
「申し訳ありません……」
そのまま、クリフトはあたしに背を向けた。
「クリフト。クリフト……!」
「姫様。お元気で……」
あたしが選んだ道なのに。
クリフトが去っていくのが辛い。
もう二度と会えないような気がして。
「クリフト。また、会えるよね。行き先が決まったら、手紙をちょうだいね」
クリフトは窓枠に手をかける。
このまま、サントハイムを出て行くつもりなんだろう。
窓から出て行くときに、クリフトはこっちを向いた。
「……姫様。お元気で……お幸せに」
それだけ言うと、クリフトはあたしの前から姿を消した。
あたしの問いかけには答えることをしないで……。



あたしはこのときのことをいつも思い出す。
あのとき、クリフトと一緒に行っていたら、どうなっていたんだろう。
結局、クリフトから手紙が来ることはなかった。
このまま、一生、クリフトと会えないままなのかな……。
だけど。
それはきっとクリフトの優しさ。
あのとき、クリフトに抱きしめられていたら、あたしはクリフトと一緒に行ったかもしれない。
手紙を貰ったら、会いに行ってしまうかもしれない。
それは、誰もが望まないことだろうから。
クリフトは、あたしのことを判っているんだね……。

「アリーナ様。お時間です……」
侍女の声に、あたしは席を立つ。
鏡に映る姿を、じっと見つめる。
純白のドレスに身を包んだあたしは、なんだか別人みたい。



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