◆叶わない恋◆

サントハイムから遠く離れた、賑やかな街の酒場。
大声をあげて騒ぐ男たち。色目を使う女たち。大きな音を立てて下賎な音楽を演奏する楽団。

──騒々しい。



なのに。どうして私はひとり、こんなところで慣れない酒を飲んでいるのだろう。



「……不味い」
グラスの中の透き通る赤い液体は苦く、少しずつ口に含むものの、一向に減らない。

「口に合いませんか、お客さん」
立派な髭を蓄えた店主が、私のグラスを取り上げた。
「あ……すみません……そんなつもりじゃ」
「お子様には、もっと甘いのを作ってあげますよ」
私を小馬鹿にしたような目線と共に、店主はグラスの中身を空けた。

──嫌味な男だ。

「そんな辛気臭い顔されてると、迷惑なんだよ。どうした、兄ちゃん」
店主は白くやわらかな色合いの新しい酒をグラスに満たし、私の前に置いた。
「……あなたに話すようなことじゃありません」
新しく出された酒は甘くまろやかで、荒んだ私の心に少しの安心感を与えた。
「……美味しい」
「だろ」
目を上げてみれば、店主は自信満々の表情で私を見下ろしていた。



「……叶わない恋をしていました」
グラスの中身をゆっくり飲み干して、身体中が少し火照る。
「していた、のか」
「はい。終わりました」
気が狂いそうなほどつらいその言葉を、私は何事も無かったかのように発した。

「明日、結婚式です」
「ふぅん」
空になったグラスを下げて、店主はまた新しい酒を作り始める。

大きな拍手が起こった。楽団の演奏がひと段落したようだ。

「なあ、兄ちゃん」
「なんでしょうか」
「あんたさ、叶わない恋だなんて、本当は思ってなかったんだろ」

可愛い桜色をした酒が、私の前に置かれた。

「……」
「本当に叶わない恋だって思ってるなら、そんな顔しねえだろ。最初から失うものなんて何もねえんだ」
私は何も言わず、そのグラスに口をつけた。

「どっかで願ってたんだよ、奇跡を。でもな、何もしなきゃ奇跡も起きねえだろう」
楽団の前に、ひとりの若い女性が歩み出た。
質素な服を身に纏い、髪は不揃いに伸びる。

「叶わない恋に、不幸に溺れる、可哀想な自分に酔ってただけなんだよ」
楽団のひとりが、弦楽器を構える。女性は目を閉じて深呼吸を繰り返す。

「あんたの恋は叶わなかったんじゃない。自分で、叶えなかったんだよ」
先ほどの騒々しい音楽とは違う、優しい、弦楽器の調べが始まった。
ひときわ大きく息を吸い込んだ女性が、その優しい調べに切ない声をのせていく。



I'll walk alone.
Because to tell you the truth.

「……叶えなかった」
「そう、叶わない恋ってことを、言い訳にな」

I'll be lonely.
I don't mind being lonely.

「……そうなのかも、しれません」
「臆病者」

When my heart tells me.
You are lonely too.

「それも、今日で終わり……です」
「……お疲れさん」

I'll walk alone.
They'll ask me why.

「……ありがとうございます」
「……どういたしまして」

And I'll tell them I'd rather.
There are dreams I must gather.

「今日が……最後、だから……」
「……何だい」

Dreams we fashioned the night.
You held me tight.



「……今まで、耐えてきました。でも、今日が最後だから。……もう、泣いても、いいですか」
女性の切ない歌声が、美しい旋律が、私の胸に突き刺さる。
十数年想い続けてきたこの気持ちが終焉を迎える日。
ずっとずっと、耐えてきた涙が、その旋律に刺激されて、溢れてくる。
「ここでダメだって言う奴は、いねえだろうよ」



美しい春の日差しの中で、ひときわ可愛らしく微笑む幼い日の姫様。
──ああ、そうだ。このとき、私は──。
「……姫様……っ……!」
ずっと昔、遠い昔の幼い日の、戻ることの無い思い出が蘇って、私の心を苦しめる。
あのとき、あなたに会っていなかったなら。こんなに、苦しむことも無かったのに。
生まれてから一度でも、こんなに心をさらけ出して、人目を憚らずに声をあげて泣いたことがあっただろうか。
……しゃくりあげる声に、呼吸すらまともにできない。
姫様、姫様、ただそれだけを繰り返して。



「……落ち着いたか」
「……はい」
「みっともねえ顔だな」
「……はい」

渡された濡れた布で、私は顔を拭く。目頭を押さえつけると、まだじんわりと涙が浮かんでくるのを感じた。

「明日は結婚式なんだろ。とびきりの笑顔で送り出してやれよ」
「……はい」

私は代金をカウンターに置いて、席を立った。
「兄ちゃん」
店を出ようとしたところに、店主が声をかけてきた。

「……なんでしょうか」
「今度来るときは、もっと強い酒出してやるから、覚悟しとけよ」



外は満天の星空。姫様と旅を始めた日の夜も、こんな星空だった。
夜風が、私のみっともない泣き顔を冷やしてくれる。
まるで、酒場での出来事は夢の中のように感じる。

「……戻りますか……」
ひとつ、深くため息をついて、私は現実に帰っていく。
明日は、姫様の結婚式。とびきりの笑顔で送り出すために。

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