◆喧嘩◆

クリフトと喧嘩した。

むかつく。

でも、喧嘩とは言わないのかもしれない。
あたしが一方的に怒ってるだけみたいに感じるから。



クリフトとの結婚式から、二週間が経った。
街の中も、お祭り騒ぎは終焉を迎えていた。
城の中も、普段通りの生活が戻っていた。

でも、それは、あたしとクリフトを除いてのこと。

広い部屋の真ん中に置かれた、大きなベッド。
二人で寝られるように用意されていたのに、一緒に寝たのは、最初の晩だけだった。
ううん、ちょっと違う……。一緒には、寝てるはず。
クリフトは、あたしが眠ってから帰ってきてベッドに入り、あたしが目覚める前にベッドから出てしまう。
ぼんやりと明け方に目を覚ましたときに、疲れた顔で眠りについているクリフトの顔を見たことがある。
最初の晩に見た幸せそうな寝顔とはあまりに違うその顔に、あたしは夢を見ているのかと思った。

今日は、クリフトが帰ってくるまで起きていよう。
そう決めて、あたしはクリフトの帰りを待っていた。
眠くなったら身体を動かして、冷たい水で顔を洗って。

「あれ……姫様。どうされたのですか……」
音を立てないようにゆっくりと開かれた扉の向こうに、クリフトがいた。
少し赤い顔。
「待ってたんだよ、クリフトのこと……」
あたしはクリフトに早足で近づいた。お酒の臭いがする。
「クリフト、お酒飲んでるの?」
「あ、はい、申し訳ありません……」
あたしがこんなに苦労して起きてたのに、クリフトはお酒を飲みに行ってた訳?
なんだか、ちょっと、むかつく。
結婚してから、一緒の時間を過ごすことなんて無かった。
結婚する前の方が、ずっとずっと、一緒にいる時間は長かったのに。
あたしのために、無理にでも時間を作ってくれていたのに。
……それに。
あのときの誓いのキス以来、一度だってキスすらしたことも無い。
「あたしを放っておいて、何やってるのよ! なんで遅くなるって、前もって言っておいてくれないの! どこに行くって言っておいてくれないの! こんなんじゃ……」
次々とクリフトを責める言葉が口をつく。

「何で結婚したのか判らない。クリフトと結婚したのは間違ってたのかも」

空気が、ぴんと張り詰めた。

あたしは自分の言葉に少し後悔した。だけどきっと、クリフトは謝ってくれる。クリフトは色々と言い訳を並べてくれる。そうしたら、すぐに許してあげよう。そう思って、クリフトの言葉を待った。

「……姫様も、そう、思われますか……」

「え……」

思ってもみなかった、クリフトの答え。
姫様、も。クリフトは確かにそう言った。
じゃあ、クリフト、も……?

「……あたしと、結婚したこと、後悔、してるんだ……」

クリフトは答えない。あたしから目線を外して、唇を噛み締める。
そんなクリフトの頬を、あたしは力いっぱい引っ叩いた。

「出てって。今すぐ、この部屋から……城から。出てって!」

思わず声を荒げる。いつもならあたしのご機嫌を取ろうと必死のクリフトが、そのまま黙って部屋を出て行ってしまった。

クリフトを引っ叩いた右手がじんじんと熱を帯びていた……。

あたしはその晩、一睡もできなかった。
結婚式であたしより先に涙を流した、クリフト。
このような日が来るなど夢のようですと泣きながら笑っていた、クリフト。
ほんの少し前のことなのに、もう、忘れちゃったの……?
願いが叶ったら、気が抜けてしまうって、よく聞く話。
夢は追っているときが一番楽しいって、よく聞く話。
もしかして、クリフトもそう思っているのかな……。



「姫様。クリフトと喧嘩されたそうですな」
遅い朝食をとっていたところに、ブライが耳打ちした。
「ど、どうしてその話」
「もう、街中に知れわたっておりますぞ」
そう言うと、ブライは大きな笑い声をあげた。
「いやまさか、こんなに早く喧嘩されるとは思わんかったですぞ」
ゆうべの出来事が蘇ってきて、あたしはまた不機嫌になる。パンを乱暴にちぎって、それを食べる訳でもなくお皿に落とした。
どうしてブライが。それどころか街中の人が、このことを知っているんだろう。
クリフトがぺらぺら喋ったのかな。ううん、クリフトはそんなことしないはず……。
「……左の頬を腫らして、教会の床に毛布にくるまって寝ていれば、誰でもそのくらい想像がつきますぞ」
自分の考えを見透かされて、あたしはびっくりして思わず立ち上がる。
「ク、クリフトがいけないんだからね! あたしのせいじゃないんだからね!」
「……ま、お座りくだされ。話を聞きましょうかな」

あたしはゆうべの出来事を、ブライに全て話した。
クリフトが毎日、遅く帰ってくること。
がんばって起きて待ってたのに、お酒を飲んで帰ってきたこと。
あたしと結婚したことを、後悔してるってこと。
……キスすらしない、って話は……ブライにすることじゃないよね。

今まで笑顔で話を聞いていたブライの顔が、だんだん険しくなっていく。
「……姫様。言ってはならないことを言ってしまわれましたな」
「え……?」
ブライはひとつ、大きなため息をつく。
「クリフトは所詮、庶民の出。それが王族に婿入りしたことで、どれだけ苦労しているか、ご想像されたことはおありかな」



クリフトが一番気にしていた、身分の差。
クリフトの誠実な人柄なら、誰も文句を言う人なんていない。
そう思ってた……。

ずっと、今日一日、そのことばかりを考えて日が暮れた。
クリフトは忙しく走り回っていて、声をかけることができなかった。
あたしが引っ叩いた頬が腫れ上がっていて、痛々しい。
一瞬、目が合ったとき、クリフトは悲しそうな顔ですぐに目を伏せた。



夜遅くなっても、クリフトは部屋に戻って来ない。
ブライが言っていたことを思い出す。
『教会の床に毛布にくるまって……』
そうだ、教会にいるのかもしれない。あたしはローブの上にカーディガンを羽織って、城を抜け出した。

教会には、うっすらと明かりが灯っている。
きっと、クリフトがいる、あたしは何の確証もなくそう思った。

「クリフト……」
あたしは重い教会の扉をゆっくりと開けて、小さな声でクリフトを呼ぶ。
一番前の椅子に、人影が見えた。
その人影が、あたしの呼びかけに応えて立ち上がる。
「姫様……」
寂しそうな声。消え入りそうな声。そんな声で、あたしを呼ばないで欲しい……。
「……そのような格好で、お身体に障りますよ」
よそよそしい声。クリフトとの間に、壁を感じる。

「クリフト。何があったの。お願い。話して。あたしには何でも話して……」
重い沈黙。
クリフトは、しばらく何かを考えていたけど、ゆっくりと口を開いた。
「……姫様の存じ上げないところで、私は……値踏みされていたのですよ……」
諦めと、嘲笑と、悲しみと。そんなものが入り混じった笑顔。

庶民から王族に婿入りしたことで、好奇の目に晒されて。
ひと目、その姿を、その立ち居振る舞いを、品性を見てやろうと開かれる食事会や会合。
全て、あたしの耳に入らないところで。

一挙手一投足を監視され、服装ひとつ、言葉使いひとつ、作法ひとつをとって蔑まされ。
『やはり、庶民をアリーナ様の婿に迎えたのは、間違いではありませんか?』
そんな声が、クリフトにわざと聞こえるような声で、ひそひそと続けられる。
なるべくあたしと一緒の時間を削るよう、夜遅くまで続けられた。

「……私は、やはり、姫様に相応しい者ではなかったのではないかと……そのような考えに流されそうになって……」

あたしとクリフトとの結婚を反対する人がいるなんて、思ってもみなかった。
だって、みんな、あんなに喜んでくれて、祝福してくれて……。

「……申し訳ありません。姫様に、このようなことを申し上げたくはなかったのです……」

あたしの考えは、奇麗事だったんだ……。
クリフトは一人で、現実と向かい合っていたんだ。

「ごめんね、ごめんね……あたし、何も知らなくて、クリフトのこと、判ってあげられなくて」
「もう、よろしいのですよ」

あたしの声を遮るクリフトの声は、もう、壁を感じなかった。
「私こそ、申し訳ありませんでした。姫様にかえって心配をおかけして……」
クリフトがあたしをぎゅっと抱きしめる。
久しぶりに感じる、クリフトの温もり。
……そうだ。
「ねえ、クリフト」
あたしはクリフトの手を引いて、祭壇の前に立った。
「ここで誓ったこと。覚えてる?」
「ええ、覚えてますよ」

 その健やかなるときも
 病めるときも
 喜びのときも
 悲しみのときも
 富めるときも
 貧しいときも、
 これを愛し
 これを敬い
 これを慰め
 これを助け
 その命ある限り
 真心を尽くすことを誓いますか……

「……この誓い。守れていませんでしたね……」
「ふふっ」
あのときのクリフトの緊張した表情を思い出して、思わず笑ってしまう。
「な、なんですか姫様」
「思い出しちゃったの。あたしより先に泣き出したクリフトを」
今度はあたしの目から涙がこぼれる。
そんなあたしを、クリフトはまた、しっかりと抱きしめてくれた。



「もう一度、誓います。愛しています、アリーナ」
クリフトそう言うと、そっと、あたしに口付けした。
「私は、もう、大丈夫です。何を言われても。決して、迷いません」



「帰ろ、クリフト」
あたしはクリフトの手を引いて、今度は教会の外へ向かい歩き出す。
「はい、姫様」
「なーに? さっきはちゃんとアリーナって呼んでくれたじゃない」
「あ、いえ、その……」

また、クリフトの顔が真っ赤になる。
まだ腫れの引かない頬にあたしはそっと手を伸ばす。

「ごめんね、痛かったでしょ」
「大丈夫ですよ」
そのまま、今度はあたしがクリフトに口付けをする。

「あたしも。誓います。これからも、よろしくね」

二人で、重い教会の扉を開けた。
冷たい夜風が流れ込んでくる。
あたしたちは、少し早足で、二人だけの部屋へ戻って行った。


短編TOPへ<<
長編TOPへ<<